紅茶の零しどころ

オタクが気まぐれで書いてる

舞台『やがて君になる』感想 ~リアルな質感と新たな解~

私の愛してやまない作品『やがて君になる』がまさかの舞台化。

その千穐楽公演を観劇して来ましたので、感想や諸々の所感なんかを綴ろうと思います。

公演自体は既に終了しましたのでネタバレ配慮等はしないつもりですが、まだ観劇されておらず円盤で鑑賞予定の方などは予めご了承ください。

 

舞台版の脚本について

端的に言って、かなり良くできた脚本だったと思います。感激でしたね。

この舞台の中だけで〝侑と燈子の物語〝が完結できる作りになっていて、「よくあの内容を2時間に収めることができたな...」と素直に感心させられました。

 

 それも公演の尺に合わせてシナリオを大幅に変更させるなどのオリジナル要素で対応したのではなく、元の形を極力壊さずに可能な限りリアルな形で舞台上に出力できていた点が特に良かったと感じています。特に重要なシーンやセリフを上手く取捨選択し、要点をかいつまんだシンプルな構成になっていたので、初見の方にも分かり易かったのではないでしょうか。

「要点をかいつまむ」と言っても、ただ重要なシーンを切り抜いて順序通り配列するだけではなく、統合して繋げられる場面展開を発見し、話の整合性を持たせたままシナリオをショートカットさせた手法がとても印象的でした。作品の一ファンとしても「お~、こことここは繋げられるのか~」という新たな発見になったので、その構成の巧みさに観劇しながら唸らされました。

 ただ、このショートカット手法にはひとつデメリットがあり、それは「『やがて君になる』特有の〝間〝の表現」が失われてしまうことです。何より場面転換が多くなってしまいどうしても駆け足にならざるを得ません。

やがて君になる』の魅力の一つとして、会話における息づかいの間 や 情景描写の連続的展開が織りなす「透明度の高い空気感」というものが存在すると考えているのですが、舞台というメディアの特性上それを表現し切ることは難しいでしょう。要は限られた条件の中で「何を取るか」ということなのだと思います。

エンドマークのある達成された作品として舞台にするためには、ここを諦めて方向転換するしかなかったと思いますし、こればかりは仕方がないかな~と自分は割り切ることにしています。それを差し引いてもなお素晴らしい舞台だったので。

 

 そして最もの功績は「生徒会劇」を特に丁寧に作り込んでくださっていたことでしょう。本作は生徒会劇をフィーチャーすることによって劇中劇による二重構造を取ったものとなり、観劇する者にある種の高い演出効果を生んでいたと考えます。

本作において私たち観客は、「作品世界(フィクション)を補強するための劇中劇(フィクション)」という構造の中で「劇中劇(フィクション)の中に観客(ノンフィクション)が巻き込まれる」という体験をすることになります。舞台において劇中劇はメタフィクション的な手法として主に用いられ、劇中劇への導入のために劇が行われるという主従関係を見せますが、本作ではあくまで劇のために劇中劇があるのであり『やがて君になる』の世界や登場人物が第四の壁を壊すことはありません。

上手く言語化できなくて申し訳ないのですが、これによって「フィクションの中のフィクションである生徒会劇にノンフィクションである観客が巻き込まれた時、そこから帰ってきた観客は生徒会劇の上位に存在するフィクション(つまりやが君の世界)へと帰ってくるので、フィクションである舞台とノンフィクションの境界が曖昧になる」という現象が生じると思うわけです。多くの人が観劇を通して「やが君は現実だった」と感じたのはキャストの再現度の高さ以外にもこういった要素があったのではないかと考えています。

これを考えると舞台という媒体はとても効果的だったというか、作品と見事にシンクロしていたと思いますね。アニメでは生徒会劇までストーリーが進んでいなかったので、原作以外の媒体でこの劇を見られたことも「念願が叶った」という感じで。その上で準主役キャラたちを掘り下げるシーンもしっかり入っていたりして、脚本の随所に『やがて君になる』への愛とリスペクトが感じ取れて非常に嬉しかったです。

 

 また、唯一原作から大きく分岐する生徒会劇後の侑と燈子のラストシーンですが、原作のかの有名な「零れる」のレイニー止め展開とは打って変わり、舞台版では燈子が侑の気持ちに正面から向き合います。観劇された皆さんはこの結末をどう感じましたか?

自分は「新たな分岐ルートの生起」として舞台の結末を納得することができました。それも小糸侑の分岐ではなく、七海燈子の分岐ルートとしてです。七海燈子の抱える問題の何をフィーチャーするかでここが分岐するのだと思われます。

原作では生徒会劇によって燈子の同一性拡散は治まりましたが、もう一つの問題である「束縛する呪いの言葉『好き』」が積み残されていたために侑との間にすれ違いが生じてしまいます。

一方で、舞台版では燈子が「好き」という言葉に囚われていることが一度も説明されていませんでした。「言葉は閉じ込めて/言葉で閉じ込めて」に当たるシーンでも「言葉で閉じ込めて」の燈子の独白シーンはカットされています。(正直うろ覚え、間違ってたらこっそり教えて)

原作・アニメと舞台版における七海燈子の大きな違いは、この「好き」に対する怨嗟の有無と考えられます。

恐らく舞台版の燈子は「好き」という言葉に縛られていないため、侑の告白に正面から向き合うことができたのでしょう。この結末から逆算して、燈子の問題が一つ無効化されたことで「言葉で閉じ込めて」は意図的にカットされたのだと思われます。よって、燈子から侑に向けられた「私を好きにならないで」という言葉も、燈子の変化による自己同一性の達成で解決できる問題となり、物語は収束します。そして侑に救われた燈子は、それまで侑に貰った分を今度は返す番となって、「侑のおかげで変われた、侑も変わることを怖がらないで」と手を差し伸べるのです。泣いた。小糸侑のモンペなので。

例えるならば、マルチエンディング作品『やがて君になる』のトゥルーエンドが原作で、ノーマルエンドは舞台版...みたいな。どちらにしても、上述の通り舞台版は舞台版で話の筋が通っているので「これはこれでアリなんだな」と納得させられた次第です。

ノーマルエンドと喩えた通り、沙弥香の物語や「好き」の言葉の再定義が行われない舞台版では、本来の『やがて君になる』が描くテーマの全ては達成できないでしょう。しかし、「こういう描き方もできる」ということをこの舞台を通して新たに理解することができたと思います。そして何よりも、侑も燈子も二人とも幸せなんですよ。それは「特別」で、何ものにも代えがたいことなんですよね。(オタク)

 

 脚本で残念だった、というか無念だったところがあるとすれば、それは佐伯沙弥香に関するストーリーについてですね。尺の兼ね合いと先述した舞台版七海燈子の特性上、沙弥香の一番の正念場となるお話が構成に入らなかったために、あの舞台だけでは沙弥香を十分に語れなかったこと、報われないままで終わったことはやはり少し寂しい。いや、めちゃくちゃ寂しい。佐伯沙弥香...。

いつかのアフタートークで、その点についてはキャストも制作陣も歯がゆい思いをしているとのお話をしていたと目にして「そうだよなぁ...」と思いつつ、佐伯沙弥香を中心とした番外編が舞台化されることをほんの少しだけ夢に見て待っています。

 

キャストとキャラクターについて

 みんなめちゃくちゃクオリティが高くてたまげました。

ビジュアルも演技も「コスプレ感」というものがなく、本当にそういう人物が生きているように見えたんですよね。やが君は現実。

 

 小糸侑/河内美里さん

めっちゃ可愛い~。小糸侑の小動物っぽい可愛さを最高に表現されていたと思います。

原作の侑はクールでクレバーな女の子というイメージがありますが、舞台版の侑は比較的活発で明るい女の子であるように見えました。しかし舞台版もその活発さの裏には原作のような物憂げな表情を隠しています。

登場人物の中では特に原作との表面的な違いの大きい子でしたが、脚本の項でも述べたように舞台の進行の関係の上で圧倒的にセリフの多い侑はどうしてもスピーディに動いていかなければならないので、 それに適合した形で舞台版の侑が形成されたのかなと思います。

舞台版の侑は感情表現が結構豊かなので「この侑はソフトで負けたら泣いたりしそうだな~」とか思ったり。それでも小糸侑としての違和感を感じなかったのは、河内さんが侑の本質をしっかりと咀嚼されていたからなのでしょうね。仮面の下に隠したモヤモヤした感情の表現も、燈子に対して感情を強く出す場面も演技にリアルで切迫したものがあって、非常に質感のある一人の女の子の姿がそこにはあったんですよね。感情が強く出るシーンでの行き場のないような手の動きは必見です。

僕は特に生徒会劇のナース衣装の侑がありえんほど可愛くて好き。

 

七海燈子/小泉萌香さん

 演技の迫力がヤバすぎる。顔も良すぎる。とにかく凄い。

「七海燈子のブラックボックス感をここまでリアルに表現できる人間いるかよ...」と圧倒されましたね。本当に七海燈子だった。

燈子の黒い部分の表現はもちろん、侑に甘えたい妹な甘々な表情も心の弱い部分も完璧超人な雰囲気づくりもどれも本物で、「たぶんこの人より自然に七海燈子を見せることができる人はいないんじゃないかな」と思わさせられるほどでした。そしてそれぞれの表情のスイッチの切り替えがまた凄い。時にかっこよく、時に美しく、時に可愛く。「極めて困難」と思われた七海燈子役を見事に表現してみせた小泉萌香さん、流石すぎて頭が上がらない。一つ一つの所作に凄みがある。大場なな役は伊達じゃねぇ。僕の負けです。全オタクは小泉萌香さんに落ちた方がいいです。ビジュアルも完璧なんだよな。

 

 佐伯沙弥香/礒部花凜さん

ビジュアルの再現度が高すぎる。でもちょっと背が低いところが可愛い。

ちなみに調べてみたら礒部花凜と河内美里さんは身長が二人とも157cmで同じらしいですよ。侑と沙弥生が舞台上で並ぶ度に「目線の高さが一緒だ...」と深く唸っていました。これは侑沙では?

お嬢様らしいおしとやかな声の調子の演技は流石声優というか、「礒部花凜ってこんな演技もできるんだな~」と感心させられました。声質はとても相性がよかった。しかし逆に声質のお嬢様感が強いことで、ところどころもう少しダークな表情を見せてくれても良かったかなとも思いました。佐伯沙弥香の美は凄く表現されていたと思います。

そして僕が一番感銘を受けたところは以下のツイートに書いた通りです。

 本当にありがとう。佐伯沙弥香のオタクより。

 

 主役三人の他にも堂島もこよみも朱里もみやりこみんなリアルな質感を持っていて「これホンモノでは?」と思わせられたのですが、特に僕のツボだったのが槙聖司役の石渡真修さんですね。

舞台の槙聖司は自分が興味がないことや理解を示さないことへの素っ気なさがやけにストレートだったり、ここぞというシーンでのダークな一面が非常に印象に残っています。

特に、侑と槙の「人を好きにならないことは寂しくないか」という会話の中の「ないね。僕は楽しいよ。こういう距離からみんなを眺めるの」というセリフは舞台から客席に一番近い場所で観客に面と向かって言われるのですが、これが個人的にとても印象に残っています。『やがて君になる』の観客として自分が槙聖司でいるような気持ちで座席に座っていたのに、当の槙聖司に突然こちらのことまで見透かされたよう気持ちになってめちゃくちゃゾクッとしたんですよね。今まで恋の傍観者として自分と槙聖司は同じなんだと思っていましたが、この体験でまた槙聖司の本質に何か触れたような気がしています。これは舞台ならではでした。

 

終わりに

 舞台『やがて君になる』、総評として本当に素晴らしかったです。

新たなストーリー構成に、質感を持ったキャラクターたち。新たな発見と感動、そして愛が詰まった素敵な舞台だったとそう言えます。終演後に全身で感じた心地良い疲労感や達成感がその証です。

脚本もキャストも本当に良かったですし演出面でも優れていました。オープニングで「君にふれて」が使用されたのも嬉しかったですし、曲がかかるまでのシーンの流れが天才的でめちゃくちゃ鳥肌立ちましたもんね。

星をプラネタリウムのように舞台に映し出したり、やが君における「光」という重要な要素の表現のためのスポットライトなどの演出効果もよく考えられていました。

衣装や小道具も忠実に再現されていたのも嬉しかったですし、キャラクターと世界観の質感を高める役割を果たしていたと思います。

というか侑と燈子のイチャイチャを現実のものにしてくれたというだけで金払う価値あるんですよ。マジで。一生見ていたかった。

舞台化して本当に良かったと心から感じています。

 

惜しむらくは自分が千穐楽しか参加できなかったことなんですよね...。無理してでももっと観に行くべきだったと気づいた時にはもう後が無かった...。

DVD・BDが発売されたらまたじっくり見るぞ~。

やがて君になるは全メディアで神!最高!

 

 

 

 

これは余談ですが、ゲネプロ含め舞台で全90回侑と燈子は本当にキスしていたと聞いて「そこまで繊細に描いてくれるなんて...」と思うと同時に「プロとは言え最初の一回は流石に両者の間に照れがあったんだろうな...めっちゃ気になる...」ということを悶々と考えては頭を抱える日々を送っています。キスシーン、映像で穴が空くほど観察したいね...。