紅茶の零しどころ

オタクが気まぐれで書いてる

TOKIMEKI ハート・ジュエル♪ と桃山みらい、虹ノ咲だいあ、あるいは傍観者

桃山みらいと、彼女の持ちソロ曲である『TOKIMEKI ハート・ジュエル♪』について考察のようなもの。

 

視聴者の予想は裏切り、しかし期待は大きく超えていく昨今のキラッとプリ☆チャン

3rdシーズンの制作がめでたく発表され(本当にめでたい)、2ndシーズンもいよいよクライマックスへと突入している本作だが、その前にここで一つ振り返っておきたいこと...というよりも、この所ずっと自分の胸を小突き続けているとある事項についてお話させて頂きたい。

そういうわけで、本記事では『キラッとプリ☆チャン♪ソングコレクション ~ミラクル☆キラッツ チャンネル~』に収録されている『TOKIMEKI ハート・ジュエル♪ 』に馳せる筆者の思いを記していく。

(一つ断りを入れておくと、これは主観的な体験の理由を作品の考察を交えて記述するものであり、項によっては客観的視点を排除している側面があります。)

 

『TOKIMEKI ハート・ジュエル♪ 』を聴いた時、これに貴方はまずどの様な感想を持たれるだろうか。

おそらくは「かわいい」という率直な感想が最もなところだろう。 この楽曲は「キラキラ」や「かわいい」の体現であり、桃山みらいの持つ王道的な少女らしい可愛さや、林鼓子ちゃんの持つ声質のかわいい特性を強く押し上げてくるような作品である。2019年のkawaii of the yearを贈りたい。

 かく言う自分も初めて耳にした時は「桃山みらいとかいう美少女かわいすぎワロタ」ぐらいのストレートな心持ちでいた。(桃山みらいちゃん、世界で一番愛してます)

 

しかし当のソングコレクション発売日、変化は訪れた。初めてこの楽曲をフル尺でしっかりと聴き込んだ時、「かわいい」を始めとするポジティブな感情と同時に、そうでない感情もまた自分の胸につかえるのを覚えたのだ。なぜか心がざわめくような、焦心するような、それは「切ない」に類する感情だった。

果たしてそれが何だったのか、ここで誰かに共有したい。

 

桃山みらいの視点から

桃山みらいは、この歌の中で常に希望に満ちた瞳で頭上の星を見上げている。

それはとても純粋で無邪気な未来志向であり、胸のときめきと輝きたい気持ちを信じて止まない意思の強度はもはや眩しくさえある。見えぬ先への不安や悩みなどをその口ぶりから匂わせることもなく、どこまでも純真な強い未来向きの思考が歌詞には綴られている。

やってみたいことが沢山あるキラキラの未来を想い描いた桃山みらいの前のめりな衝動に、詩とリズムで輪郭を与えた時に生まれるのが『TOKIMEKI ハート・ジュエル♪ 』だ。

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つまり、これは果てしなく「自分のための歌」なのである。桃山みらいが他でもない自分のために放つ歌だ。

52話(2ndシーズン1話)『ドキドキ!わくわく!ジュエルオーディション開幕だもん!』でも語られた彼女の大目標は「あまねく人々にキラッとを届ける」ことであるが、それは「輝く自分」という自己実現の延長線上にある目標であり、ここで彼女の瞳に映っているのは憧れの人や友達の姿でもなく、未来の自分である。

それは、りんかの『夢色エナジー』やえもの『えもめきピッカーン』のように誰かの背を押せるような言葉を送るのでもなく、さらの『My Secret heArtbeats』やだいあの『フレンドパスワード』のように誰かへの想いを詩にするのでもない。

「輝きたい」の気持ちを桃山みらいが解放するこの歌の中には、彼女の他に他者の存在が浮かび上がることがほとんど無く、誰か(=キミ)に届けたい歌ではあるものの、それを歌い上げる気持ちはひたすらに自分自身へと向かっていることが見て取れる。彼女は誰かのために輝きたいのではなく、喜びに満ちた自らの輝きを、近くの分かち合える誰かとただ共有したいのだ。桃山みらいもまた主体的な煌めきの拡散者なのだろう。

 これは、他者が介在することなく自分自身の内面を描き切っているという点で、特に関係性を重視した2ndシーズンの楽曲群において他のキャラクターたちと決定的に異なっているといえる。

この話の焦点はここにある。

 

桃山みらいの普遍性と特異性

トピックを少し過去に戻すが、桃山みらいはニュートラルな性質のキャラクターである。

地に足が着いた物語の中心となるよう、至って普通の女の子として設定されている。主人公でこそあるがそのキャラクター性は光でも闇でもなく、あえてカテゴライズするならば無属性な女の子である。彼女はリアルな等身大の女子中学生として描かれている。

なので、凄く親しみやすい。ボーッとして何を考えているか分からない時もあるが(これは単純に何も考えていないことが多い、中学生なのでそういうところもある)、それが桃山らしい身近さであるし、かわいいところでもある。普通に物怖じもするし、無理なことは無理だし、別にいわゆる聖人でもない。日常の中で起こる普通のことに、普通だからこそ気付ける価値を見出して、それを身近な誰かと共有することができる。そういった色々を含めて、リアルな年ごろの少女のニュートラルで親しみやすい可愛さを持ち合わせている。(ただ顔は死ぬほど良い)

 だからこそ、虹ノ咲には桃山が特別だったのだとも思える。対人スキル皆無の虹ノ咲にとって、桃山が現実離れしていない身近な女の子であることは一目惚れしたその顔の良さと同じくらい重要なことだった。彼女に憧れるのと同時に、彼女が普通ゆえのその近しい距離感に「彼女に近づいてみたい」と素直に思えた側面があった。

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  しかしそんな桃山にも、物語が進む中で露わになっていた非凡な面がある。それは彼女の強靭な行動力だ。

桃山は一度やると自分で決めたことは、どんな障害があれどそれを必ず完遂まで導いてしまう力を持っている。自分から前に出ることは少ない彼女だが元より努力家である上にクリエイティブな才能を持ち合わせているため、外部から行動の動機さえ与えられてしまえば最終的には(たとえ強引にでも)彼女は目標まで辿り着くことが出来てしまう。やると決めるまでは奥手なところもあるが、一度やると決意してからのパワーが非凡であるのだ。

デビューを前にしてプレッシャーに負けそうになった萌黄の手を引っ張ったのも、意思を行動で示して引退を決意していたアンジュを引き留めてみせてしまったのも、一度覚悟した時の桃山の図太い行動力のなせる結果だった。それは善や正義の意思から来るものではなく、ただ自分が「やってみたい」と思えることを貫き通したものであり(ともすればそれは危うさでもあるわけだが)、正に「わからなかったらやってみよう」の体現者であるともいえる。

 1stシーズンではまだ桃山自身がそれに無自覚な場面も多く、彼女の周囲で発生する問題によって動機が与えられることでその能力は外的に引き出されてきたわけだが、それらの様々な経験から桃山は自分の得意とする・興味のある分野が何なのか次第に掴み始めることとなる。

そして2ndシーズンでは桃山も徐々に将来的な大目標を思考するようになり、今や主体的に方向性を与えられる彼女の強靭な行動力はまさに彼女自身の夢の実現へと向かって進むようになった。

その我を通し目標へ直進する強い力の現在地こそが『TOKIMEKI ハート・ジュエル♪ 』に示されている、というわけである。

 

桃山みらいを見上げる者の視点から

本題に戻ると、『TOKIMEKI ハート・ジュエル♪ 』は桃山みらいが桃山みらいのために歌う歌であり、歌詞に現れる受け手としてのキミは誰でもあって誰でもなく、ほとんど桃山みらい一人で完成される歌である。

よって、それを歌い上げる桃山に関心を向ける誰かが、その場においてそこに関与する席は予め用意されてはいない。そこに双方向のコミュニケーションは事実上存在しておらず、気が付けば彼女の姿を一方的に見上げるばかりとなる。本質的にステージ上での桃山の関心はほとんど彼女自身に向けられており、その自立する求心力はあまりにも強力で、桃山の意思決定に他者が介在する余地は今ここに見当たらない。

それを理解した瞬間、自分の胸に小さな棘が刺さるような感覚を覚えた。これはきっと、虹ノ咲にとってもそうだったのではないかな…と思っている。

 

その感情の正体は何であるのか。

まず、地に着けた足を強く踏み込み、今にも夢に向かって飛翔せんとする姿勢を取った桃山を見て「もしかすると、みらいちゃんはどこか遠くへ行ってしまうんじゃないか」という予感に不安を覚えたことに端を発する。

身近で親しみやすさのあるかわいい女の子だと思っていた桃山の人としての成長を唐突に突き付けられた気がして面食らってしまった。彼女が努力家であることは理解していたが、いつの日かここまで眩しく見上げようとは覚悟できていなかっただろう。やけに頼もしくなってしまった桃山の後ろ姿は、嬉しくもあるが寂しくもあり、何かと追いつかない気持ちも残るのだ。

桃山は自分の夢を見つけ、自分の翼で高く飛び立とうとしている。自分(そして貴方)はその旅立ちをただ見送るだけの視点に立たされていることに気が付いた時、何か取り残されてしまうかのような寂しい気持ちに胸を刺される。「みらいちゃん、置いていかないで……」と縋ってみても、たぶんその願いは桃山に届かない。桃山が遠い人になってしまった未来の寄る辺なさを考えたとき、何か心に穴が空いたような感覚に見舞われてしまう。

 要するに、この歌に見えた桃山みらいの眩しい背中との間に空いてしまった距離に、どうしようもなく哀愁を感じずにはいられなかった。彼女にはもう自分の力で飛んでいける強さ(それはきっと自己同一性の達成でもある)がある...。それをこの楽曲に否が応でも知らされることになったのだった。

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つまるところ『TOKIMEKI ハート・ジュエル♪ 』とは、現在に至るまでの桃山みらいの地続きのストーリーを有している非常にエモーショナルな楽曲なのである。

彼女の成長に想いを馳せてしまった時、なおのこと咀嚼の甲斐がある一曲だ。

桃山みらいがどう成長し、現在地はどこで、そしてこれからどこに向かうのか。それが、彼女の青春のライブ感と共にこの楽曲には刻まれている。それを色んな距離から眺めた時、桃山みらいに対する「かわいい」だけじゃない様々な体験がそこに発生していれば、それはとても楽しいことで、良いことなのではないかなと思う。

今後の物語の中で描かれるであろう桃山みらいの到達点、それは果たしてどこになるのだろうか。2ndシーズン、そしてその先のこれからが今から楽しみでたまらない。

 

音楽的観点

そんな『TOKIMEKI ハート・ジュエル♪ 』だが、歌詞から見えるキャラクター性以外にも、メロディにもまたその感情体験を呼ぶ仕組みがある。

端から弾むようにシンセを鳴らすイントロは湧き上がる高揚感を生み、繋がるAメロではチルしたかと思えば、上昇クリシェで徐々に気持ちを行きたいところへ上げていく。

Bメロでは浮足立つ気持ちを表現するかのようにふんわりやわらかいメロに夢見心地で、下降クリシェ→上昇クリシェの進行が最高に良い。

サビで転調し、メロはほとんどヨナ抜き音階。これが和風でノスタルジックな雰囲気を出しつつ、煌びやかでやわらかな可愛さを演出している。合いの手のかわいさ全一。

どこまでもスケールの大きな夢を見ていて、そこへ向かって自由に羽ばたいているような心地のCメロには、桃山が見ているキラキラした夢をまるで追体験させられることとなる。

メロディ全体を通して、夢見心地でふんわりやわかな可愛さを全開に出しつつ、どこか切ない郷愁感が耳に優しく残るところに、感情を呼び覚ますスイッチがあるように思える。

 

虹ノ咲と、傍観者

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向かう先を決めた桃山みらいの意思は力強く、彼女の歌う『TOKIMEKI ハート・ジュエル♪ 』は時として眩しすぎる。

だからこそ、それを目の当たりにした虹ノ咲が桃山に対する「かわいい」「好き」「自分もそうなりたい」の感情を肥大化させると同時に、光あるところに影があるように、「自分にそんな力はない」「近くて遠くに感じる」「自分には無理だ」という心理的な負荷が彼女の心に深い影を落としていた気がしている。

みらいちゃんみたいになりたいけれど、みらいちゃんみたいにはなれない。打ち明けられない秘密と、憧れのジレンマが虹ノ咲を悩ませる。彼女と同じ場所に立ちたいけれど、とても自分にはそこに追いつける自信が持てない。桃山みらいの未来志向はどこまでも純粋で、強力で、きっと彼女には眩しすぎた。しかし、というか、だからこそ、そんな輝く彼女が大好きで憧れだったのだ。近くて遠いみらいちゃん...いつかの虹ノ咲の涙にはそういう諦観との闘いもあったと思う。

一人で思い詰めがちな(それ以外の方法を彼女は知らなかったので)虹ノ咲は、見上げた輝きが自分の後ろに落とす影をふと振り返った時、その埋まらないギャップに心のどこかで暗澹たる気持ちを抱えていておかしくなかった。というか、きっとそうだったのだろう。これがエンパシーなのか、自己投影なのか、虹ノ咲から見える世界の視点にいつの間にか自分を重ねていた部分もあったかもしれないが、それはあえて考えないでおく。

 

そして、第89話『聖夜はみんなで!ジュエルかがやくクリスマス!だもん!』にて。

虹ノ咲だいあは、桃山みらいたちと同じ陽だまりへと辿り着く。半歩踏み出した勇気と臆病を、みんなが受け入れてくれた。いつの間にか生まれた繋がりは、もう疑わなくていい、確かなものだった。彼女はきっと、もう大丈夫だ。ここではない、そこにいる。虹ノ咲だいあに祝福あれ、私であり貴方であった傍観者からそう告げよう。

 

 

 

 

 

P.S. つまり桃山みらい、お前を世界で一番愛しているのは...…俺だ......!