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やがて君になる 第38話「針路」感想・考察

※本エントリーはやがて君になる原作最新話(電撃大王2019年3月号掲載)のネタバレを多分に含みます。未読の方はブラウザバックと電撃大王の購読を推奨します。

 

 

 

 

 

 

 

 

沙弥香が遂に告白へと踏み込んだ前回37話に続き、修学旅行編後半となる『やがて君になる』第38話『針路』。

沙弥香の想いに対して燈子の選んだ答えとは。

 

与太話:続・修学旅行の観光ルート

冒頭で沙弥香たちが乗っている列車は嵯峨野トロッコ列車トロッコ列車から見える川下りの船は保津川下りの船です。

保津川下りは亀岡から嵯峨嵐山までを下っていくので、川下りとトロッコ列車を両方体験する場合は、嵐山をスタートとして、嵐山から亀岡へトロッコ列車で登り、川下りでまた嵐山へ帰ってくるコースがメインになるかと思います。

作中ではトロッコ列車の後に嵐山の竹林の道に訪れていますが保津川下りは体験していないように読み取れますので、京都駅から嵐山に向かった後、トロッコ列車で観光線を往復して嵐山に戻ってきたのでしょうか。

竹林の道を抜けた後、府道へと出てそのまま南下し、渡月橋へと向かいます。

まどみど&燈沙が乗った貸しボートの乗り場や、燈子が沙弥香に返事をするシーンの場所である嵐山公園は、桂川の南側の岸にあるので4人はそのまま渡月橋を一度渡り切っていることになりますね。ちなみに貸しボートの値段と乗船人数は実際のものと同じです。

そして今回一番のメインポイントである燈子から沙弥香への返事のシーンは嵐山公園の西端となります。グーグルマップで実際に確認することができるのでそれで現地の雰囲気を掴むのも手。

 

 閑話休題

佐伯沙弥香の「好き」の定義

暗闇の中に膝立ち、天から垂れてくる糸のその一本に触れる燈子が描かれた扉絵に始まる38話。後の内容からも分かりますが、この扉絵は燈子の「選択」を表します。

無数に下りる糸の中から一つの糸を選び出そうとする燈子。その糸の行きつく先に迷宮の出口はあるのか。

この構図にもし近いモチーフがあるとするならば、蜘蛛の糸よりはアリアドネの糸でしょうか。

 

一夜明けて修学旅行を再び進める4人。

前日の沙弥香の言動が飲み込めず、トロッコ列車に乗っている間も竹林の道を歩く間も沙弥香の様子を伺ってばかりいる燈子。一方、当の沙弥香は人事を尽くして天命を待つ、もとい燈子の返事を待つのみであり、素直に京都観光を楽しんでいる模様(かわいい)。

この二人の対比は、沙弥香が告白のタイミングを探して燈子の様子を伺っていた37話から立場が逆転しており、沙弥香のモノローグから始まる37話と燈子のモノローグから始まる38話の二話でワンセットのお話であることが伺えます。

 

「沙弥香の好意の大きさに気付いてなかったわけじゃない」

本当は沙弥香の気持ちに燈子は気付いていた。気付いていたけれど、沙弥香が踏み込まないことに甘えて今までずっと目を逸らし続けていた。本当に悪い女。

「だけど...」と続く回想には『導火』での線香花火のシーン、そして『願い事』での生徒会劇の衣装合わせのシーンが映し出されますが、これらはどちらも沙弥香が燈子に踏み込んだシーン。

沙弥香が燈子へと踏み込もうとしたこの二つの話において、一方の『導火』での燈子は「沙弥香ならいいよ」と自分の過去へと踏み込む沙弥香を許容しますが、もう一方の『願い事』では燈子の変化を促す沙弥香を「もういいよ」と拒絶しています。燈子から沙弥香へ告げられる「いいよ」の意味が二つの話の間で許容と拒絶の正反対であることに気付かされて背筋がゾワっとする。

 

 竹林の道を抜けて渡月橋を渡り、まなみどが先走ったことで半ば強制的に二人で貸しボートに乗ることになった燈子と沙弥香の二人。ボートで桂川へと漕ぎ出し、物理的・空間的な二人だけの対話の世界へと疑似的に隔絶されたことで遂に燈子が切り出す。

 「......沙弥香は いつから私のこと好きだったの?」

前回37話の記事でも述べましたが、燈子にとって「好き」という感情は対象を特定の状態へ束縛するものであり、時間経過による条件づけられた事象であると解釈しているが故に「沙弥香が ”いつから” 自分のことを好きになったのか」が沙弥香の感情を知るに重要なファクターであると燈子は考えてしまうので、それを沙弥香に問いたださずにはいられません。

その後に続く「えっ!?」から「か 顔は大事だと思う」までの流れの表情豊かな沙弥香があまりにも可愛すぎて可愛いの記録を更新し続けるので「こんな可愛い女を悩ませるなよ七海燈子...…」という気持ちがますます積層されてしまう……。「顔は大事だと思う」のセリフが太字で強調されているのもなお可愛い。

しかし当の燈子にとって沙弥香の「入学式から」という返答は予想外のものであり少し面食らった様子を見せる。「顔ぐらいしかわからなくない?」と若干戸惑う燈子に思わず前のめりになりながらも沙弥香は一つずつ根拠を挙げていきます(かわいい)。

 

それでも先述の通り燈子にとって「好き」は束縛であり、変化の中でも保たれる「好き」の概念が分からず、最初の印象とは違う七海燈子を知った上で燈子を好きだと伝える沙弥香に「変化しても好きでいられるのか?」と尋ねます。

燈子の言葉を受けて沙弥香が視線を上げた先に視えるのは、ちょうど秋の紅葉を迎えて鮮やかな色彩の変化を起こしているであろう楓の木。

「変わらないところもあるわよね」「顔とか 声とか 根本的な頭の良さとか」

落葉の前に紅葉して葉の色を変化させる楓も、その幹や根が同じように変化することはないように、一つの個体として変化しない根幹となるものがあります。

それを受けた燈子は「ではその根幹が変わってしまったら?」と更に尋ねる。

「顔が大火傷で変わってしまったら?」

「とても残念には思うけど、それでもきっと好き」

「成績が落ちてしまったら?」

「別に一番じゃなくていい、でもあんまり落ちて挽回する気もなかったらがっかりするし好きでいられるかどうかわからない」

そう取り繕うことのない正直な感想を述べる沙弥香は変化を終えて桂川に落ちた二枚の楓の葉を掬いあげようと指先を水面に走らせ、不意に燈子の頭に舞い落ちた楓の葉をそっと摘み、沙弥香は自分の考える「好き」について語る。

「あなたは私の好きなあなたでいてくれるだろうっていう 信頼の言葉 かな」

「勝手な信頼だけどね」と付け加えつつ、柔らかい表情を見せる。

沙弥香にとっての「好き」という言葉とは、相手に対する信頼に基づく言葉でした。

好きになった相手の変化を拒絶はしないが、どんな変化も許容できるというわけでもない。「どんなあなたでも好き」なんて言葉は、極論を言ってしまえば無責任な綺麗ごとかもしれません。「あなた」が「あなた」でなくなってしまっても本当に愛することが出来るのかなんて、そんな簡単に答えは出せないでしょう。

そして楓の花言葉は「大切な思い出」、「美しい変化」。

一連の流れで描かれる、紅葉して落葉する楓の葉はまさに「変化」の象徴であり、それを拾い上げる沙弥香の情動は「変わりゆく七海燈子を受け入れる佐伯沙弥香の心情」そのものを表すのです。

沙弥香は完璧で美しい燈子を見て好きになった。一方で沙弥香は燈子の弱さを知ってしまったが、それでも沙弥香は燈子を好きだと思った。

楓の木は秋に美しい紅葉をして人を魅了するも、春の芽生えの季節も、夏の新緑の季節も、冬の裸木の季節も、時節によらずそれが楓の木であるという根幹は常に不変です。楓は秋の季節にしか楓になれない...などと、そんなことは決してない。

紅に染まる楓を見て美しいと思ったが、その秋の葉だけを愛したのではなく、季節とともに移ろいゆきながら命を芽吹かせるその枝と幹と根が、楓という木そのものが尊いと思った。

これが沙弥香の考える「好き」であると、そう理解します。

例え緑の葉を付けようと、枝だけの姿になろうと、七海燈子が七海燈子であるという根幹は変わらない。佐伯沙弥香にとっての七海燈子はここに在るのです。

ただし、楓が楓でなくなってしまう時―七海燈子の根幹が揺らぐ時―はその限りではなく、「あなたは私の好きなあなたでいてくれることへの信頼」とは楓が一年中紅葉し続けることへではなく、楓はいつの季節も常に楓であることへの信頼なのです。中学時代、柚木先輩の望む自分に変化しようとしたのに、柚木先輩は佐伯沙弥香という人間の根幹が好きだったわけではなかったという辛い経験をした沙弥香だからこそ、その言葉には切実なものがあります。

また、西洋の花言葉では楓(Maple)は「reserve(蓄え、遠慮)」とも。

紅葉に染まる楓は一方で沙弥香から見える燈子を表し、もう一方で沙弥香自身も表すのです。踏み込んで変化していく二人を描き出す文学的表現が美しいこと。

 

七海燈子の選択と自覚

沙弥香の言葉を受けた燈子は沙弥香が隣にいた過去を回想し、今までその「信頼」に支えられていたことを再認識します。沙弥香が燈子を信頼するように、燈子もまた沙弥香を信頼していた。だからここまで来られたし、そんな沙弥香だから「好き」を伝えられても穏やかな気持ちでいられる。

そんな折に燈子の目に飛び込んできたのは二羽の寄り添い合う鴨。燈子はその様子に侑と手を繋いで歩く自分の姿を連想してしまいます。

燈子の脳裏に浮かんだその情景の中で、侑とおそろいのストラップを鞄に付けた燈子は笑顔で侑の方を向いています。しかしもう一方の侑の姿は後ろ姿だけで、その表情までは描かれていない。仮面を被り、噓をついて「好き」を隠し続けてきた侑の本心が燈子には分からない。だから侑の表情は描かれない、思い描くことができない。

 

ここで、水面に降り立つ二羽の鴨の構図は『零れる』における渡り石での侑と燈子の構図との対比になっていると考えられます。

川を横切る渡り石の上で侑は燈子へ告白し、その結果燈子に拒絶されたと思い込んだ侑は土手の階段を駆け上がって逃げるように燈子の元を離れますが、燈子視点では侑が川から上がって地から空へ逃げるように去っていく姿が描写されます。

前回の記事でも「告白後の侑は地から空へ、沙弥香は空から地へ向かう」ことについて言及しましたが、この38話において描かれるのは「侑が空から地(川)へ、燈子の隣に戻ってくる」構図なのです。燈子の心象風景には描かれる侑は燈子の左隣にいて、空から舞い降りた二羽目の鴨は一羽目の鴨の左隣に着水しているという二つの構図の同期からも、それが確からしいことが伺えます。

そして水の流動の連続である川はまさしく変化の象徴であり、川の水面に降り立ち二人で寄り添ってその変化の中に身を置くということは、燈子と侑のこの先の展望を示す伏線、というよりは、その構図こそが「七海燈子が辿り着きたい未来の形」なのではないでしょうか。

そして自分が望む未来の形の輪郭を朧げに掴んだ燈子は、沙弥香へ返事をする決意を固めるに至ります。

 

 「私は 沙弥香を選べない ...選ばない」

「昨日の返事 するね」からこの言葉に至るまでの2ページの間、 一切の台詞が挟まらない。仲谷先生のこういったその場の生きた空気の流動を感じさせるような、映像的な質感のある描写がたまらない。

沙弥香を選ばないことを伝え「ごめん」と告げる時の右手で左腕を掴む燈子の仕草は、『零れる』にて侑に「ごめん」と告げた時の仕草と同じであり、燈子の癖だと考えられます。この癖は不安から何かに縋りたい心理の表出であると思われますが、その縋りたい何かとはやはり姉の七海澪の存在でしょう。燈子が自室に置いて大切にしている家族写真に映る七海澪は制服姿で、幼い燈子はその澪の左腕を笑顔で掴んでいる様子が作中で描写されています。つまり、制服を来た姉にそっくりの自分の左腕を掴むことで、燈子は疑似的に姉に縋ろうとしているのです。しかしこれは燈子が未だに澪の影を追っているということではなく、単に「姉に甘えたい」という妹としての側面の表出であると思われます。

 

 人から好きだと言われて嬉しいと思えたのは初めてだった。それは沙弥香だったからこそ...。それでも好きな人がいると沙弥香に告げる燈子。

その言葉を聞いた沙弥香の影が水面に映り川の流れに揺れる様子は、沙弥香の心情の揺らぎを映し出す。

「それは 小糸さん?」

「そっか そっかあ」

「悔しいなあ」

 自分の気持ちを自覚してその重みに涙を流す燈子、選ばれたのが自分じゃなかったことに涙を流す沙弥香。

ずっと燈子のことを考えてきたけれど、それを行動に移すことを恐れすぎた。侑よりも長い時間燈子と一緒にいたけれど、いざ踏み込んだのは侑だった。だから沙弥香は選ばれなかった?いや、裏を返せば、沙弥香はずっと踏み込むことを選ばなかった。踏み込むことを選んだのが自分ではなかった。「悔しいなあ」と零した言葉はきっと、侑へ向けたものではなく、選べなかった自分に向けたものだったのでしょう。

「好きって選ぶことなんだ」

「こんなに重い なんて知らなかった」

踏み込むことを選んだ侑と、踏み込まないことを選んだ沙弥香。

そのどちらもが燈子にとって大切な存在ですが、燈子が選んだのは侑でした。

好きになるということは、好きでいるものを選ぶということ。何かを選ぶということは、他の何かを選ばないということ。何も選ばない世界には、好きも嫌いも存在し得ない。誰かを好きになると心に決める時、人はその釣り合いに誰かを好きでいないという決断を同時に迫られている。燈子は侑を選び、沙弥香を選ばないという事実によって、その選択の重みを自覚します。

エーリッヒ・フロムは著書『愛するということ』において「愛は技術である」「愛は能動的な活動であって受動的な感情ではない」「誰かを愛するというのは決意であり、決断であり、約束である。」等と説きました。「愛」と「好き」は同義でないかもしれませんが、「好き」もまた何かを選び続けるという技術なのでしょう。

そしてその天秤にかけるに値する人間は、燈子にとって沙弥香以外にはあり得なかった。信頼する沙弥香でなければ、燈子の認識は「侑かその他」でしかなく、それを知覚するにはあまりにも漠然としすぎていた。「侑か沙弥香」という具体的な選択になって初めて、それが選択という行為であることを知ることができた。だから燈子は沙弥香に感謝を伝えます。沙弥香でしかそれを燈子に教えることができなかったのです。

 

それぞれの結末

そして燈子の心を知った沙弥香は自分だって泣いているのも気にかけず、ハンカチで燈子の涙を拭い微笑みかけます。

「好きよ 燈子」

 自分が選ばれないことを知ってなお、燈子が好きだと言葉にして伝える沙弥香。

これこそが、沙弥香自身が言った「燈子のぜんぶが好き」という言葉の意味を突き詰めた最上級のアンサー。

たとえ燈子が自分を選ばなくても、燈子が沙弥香の好きな燈子であることに変わりはなく、沙弥香は燈子を好きでい続ける。沙弥香は燈子に対し、そう信頼するのです。

その信頼の言葉をもって自分の信念を行動で表す佐伯沙弥香、本当に最高の女すぎる。

佐伯沙弥香は最高の女なんですよ。

 

沙弥香の中で育ち続けて胸を破った言葉は、たしかに燈子に届いた。沙弥香は選ばれなかったけれど、燈子にとってその言葉には確かな意味があった。

その言葉を沙弥香は「愛の言葉」と振り返ります。

一人の個人として自立し、自分の信念を持ち、相手に与える事によって達成されたそれは、紛れもなく「愛する技術」によって生み出された「愛」なのです。

高校生にして自らの「好き」と「愛」の形を定義してしまう佐伯沙弥香、本当に最高の女。何回でも言わさせて欲しい。

 

沙弥香の告白に決着がつくとともに修学旅行は終わりを迎え、シーンは帰路の新幹線へ。

全てを出し尽くしてすっかり疲れてしまったのか、燈子の隣でスヤスヤ眠っちゃっている様子の沙弥香、あまりにも愛おしくないですか。

そして何かを決意した表情で侑へメッセージを送信する燈子。

燈子が膝に抱えるリュックサックには、修学旅行中にそれまで付けていなかったはずの侑とおそろいのストラップが付いていて、空いていたジッパーは閉じられています。

このリュックサックの変化が、沙弥香の告白によって燈子に芽生えた決意を表しているのでしょう。やが君のさりげない小物を用いた比喩表現、本当に巧み。

 

 

やがて君になる』38話『針路』、あまりにも重厚的。

沙弥香の定義する「好き」によって、「好き」という言葉は自由の子であり、決して支配の子ではないということに触れ、同時に「好き」は残酷な側面を持った主体的な選択であることを知った燈子。そして動き始めた侑への「好き」の気持ち。

燈子は侑に何を伝えるのか。何を届けられるのか。

 

最後に、「これ、めっちゃ七海燈子では?」と個人的に思うフロムの言葉を添えて終わりとします。

一人でいられる能力こそ、愛する能力の前提条件なのだ。

幼稚な愛は「愛されているから愛する」という原則にしたがう。

成熟した愛は「愛するから愛される」という原則にしたがう。

未成熟な愛は「あなたが必要だからあなたを愛する」と言い、成熟した愛は「あなたを愛しているからあなたが必要だ」と言う。

 

さあまた一ヶ月、待ち焦がれましょう。