紅茶の零しどころ

オタクが気まぐれで書いてる

アルストロメリアの歌詞解釈【シャニマス】

アイドルマスターシャイニーカラーズのユニット「アルストロメリア」の最初のユニット楽曲に当たる『アルストロメリア』。

この楽曲、よくよく読み解いてみるとポップでキャッチーな可愛らしいメロディに反して、歌詞の中に三人のパーソナリティーと絡めた手重い物語が描かれていることが伺えてきます。

既に色々考察されている方も多いかと思いますが、自分なりの解釈を記していきます。

THE IDOLM@STER SHINY COLORS BRILLI@NT WING 05 アルストロメリア

THE IDOLM@STER SHINY COLORS BRILLI@NT WING 05 アルストロメリア

 

 

 

 

はじめに︰アルストロメリアとは

アルストロメリア(植物)

【分類】植物界被子植物単子葉植物綱ユリ目ユリ科アルストロメリア属 

【学名】Alstroemeria spp.

開花期は5月〜7月。花色は白、黄、赤、ピンク、オレンジ、青、紫など多彩。

6枚の花弁のうち、外側の3枚は丸みがあって大きく、単色または複色、内側の3枚のうち上側な2枚に特に強く縞模様が表れる(縞模様のないものもある)。

葉は根本で180°ねじれており、葉の裏面が上になる。和名は百合水仙

花言葉

全般「持続」「未来への憧れ」「エキゾチック」

「幸い」

「凛々しさ」

ピンク「気配り」

西洋の花言葉「friendship(友情)」「devotion(献身的な愛情)

 

アルストロメリア(ユニット)

アルストロメリアとは

花ざかり、私達の幸福論

ポップでハッピーな3人組アイドルユニット。アルストロメリア花言葉「未来への憧れ」を胸に抱き、今日もシアワセなパフォーマンスで会場に笑顔を咲かせます!

ALSTROEMERIA (アルストロメリア) | アイドルマスター シャイニーカラーズ(シャニマス)

 

公式による説明の通り、ユニット「アルストロメリア」はアルストロメリア花言葉「未来への憧れ」を一つのテーマとしており、これを由来のひとつとしています。

また、アルストロメリアのユニット衣装は白・赤・ピンク+α(メンバーカラー:甘奈=白、甜花=黒、千雪=水色)のカラーリングとなっており、花言葉を持つアルストロメリアの花弁色3つをベースカラーとして網羅しています。

ユニット説明や楽曲の歌詞にも度々顔を出す「幸福論」というワードも赤いアルストロメリア花言葉「幸い」に由来するものでしょう。

ユニットロゴである花弁のマークやユニット衣装のチョーカーの花飾りは、先述のアルストロメリアの大小6枚からなる花弁の特徴を表す形状をしており、これらは確かにアルストロメリアであることが確認できます。

ちなみに、千雪の誕生日である4月18日の誕生花がアルストロメリアであったり

 

 

 歌詞解釈

歌い分けについて、それぞれのパートをカラー別に甘奈甜花千雪、全員で表記します。(カラーは適当)

 作詞:鈴木静那

 


1番 - Aメロ1

気絶しそう しどろもどろ

花盛りタレイア

まともな神経が繋がらない アダージョみたい

  •  タレイア...ギリシア神話の女神(Thalia)。女神タレイアには三美神カリス、ヘーシオドスの九姉妹ムーサ、もしくはネーレーイスとする以下の3通りがあるが、いずれも別物として考えるようである。
  1. カリスにおけるタレイア...美と優雅を司る女神の三姉妹カリスの一人。名前の意味は「花盛り」。
  2. ムーサにおけるタレイア...文芸を司る女神の九柱の一。喜劇・牧歌の分野を司る。喜劇用の仮面・蔦の冠・羊飼いの杖を所持。名前の意味は「豊かさ」。
  3. ネーレーイスにおけるタレイア...ネーレウスの娘で海に棲む女神たちネーレーイスの一人。
  • アダージョ...音楽用語の一つ。 原義は「くつろぐ」であるが、音楽用語としては遅い速度を示す。 また、遅い速度で書かれた楽章や楽曲そのものをアダージョと呼ぶ場合もある。

 

ギリシア神話における女神タレイアには3通りありますが、歌詞中ではこれを導く言葉として「花盛り」が使われています。

「花盛り」とはカリスにおけるタレイアの言意であり、ここにおけるタレイアはカリスにおけるそれを指しているでしょう。

花盛りのうら若い女性=わたしを指します。

また、年頃の多感な女の子のコントロール不可能な情動が描かれており、気が動転して言葉も上手く出てこない、理性が追いつかず恋心に振り回されては思考回路もショートしてしまいそうな様子を神経のアダージョと喩えます。

 


1番 - Aメロ2

凛々しくいよう 強くなろう

天と地がディストーション

夢を見ることも忘れてしまうのかな

「凛々しくいよう」は、アルストロメリア(白)花言葉「凛々しさ」に由来。

「天と地」について、当て字で「天」は甘(あま)奈・甜(てん)花のことを表し、「地」は千(ち)雪のことを表しているとも見られます。

また、アルストロメリアは別名「夢百合草」とも呼ぶそうで、「夢を見る~」はこれにかかっているとも。(要検証)

 恋の衝撃は、まるで天地がひっくり返るかのようで、まともな思考もままならなくなる自分自身に戸惑いながら「もっと凛々しくありたい」と望む気持ちと、恋の前に何もかも霞んでしまうような予感めいた恐れと期待の気持ちとが綯い交ぜになってしまっている主人公(歌詞中における「わたし」)の心境が読み取れます。

また、「天と地がディストーション」とは、根本でねじれて上下(天地)が逆さまになっているアルストロメリアの葉のことを表していると考えられるでしょう。

これは自分をアルストロメリアに喩えた上で「わたしの歪んでしまったパーソナリティ・自己認知」についての自虐的な独白に捉えられます。

 

余談ですが、「天と地がディストーション」の部分、前記のように「天」を大崎姉妹とし「地」を千雪とするならば、ゲーム内イベント「満開、アルストロメリア流幸福論―つなぐ・まごころ・みっつ―」のシナリオとの繋がりも見えてきたり。

シナリオでは、千雪は年長者として一歩引いた立場から大崎姉妹を優先することで、自らの意見を積極的に表に出せなくなってしまう姿が描かれます。

これに対する大崎姉妹からのアンサーの形がシナリオテーマの一つとなっているわけですが、「天と地がディストーション」とはこの甘奈・甜花と千雪の優しさによるすれ違いのことを表しているとも捉えられるかもしれません。(シナリオと歌詞のどちらが先に生まれていたかは知りえるところではありませんが…)

はたまた、ここは甜花の歌唱パートなので「凛々しくいよう、強くなろう」という歌詞は自己評価が低く自分を変えようとする甜花自身のパーソナリティーにもリンクしているのかも。

 

 


1番 - Bメロ

ふくらむ蕾が傷だらけでも

優しくそっと手をとってくれますか

ふくらむ蕾は、芽生えたもののまだ行く先のつかない恋心のメタファーであり、その激しい感情に振り回されては擦り傷を増やしてしまう自制の効かない心のありさまを蕾の"傷"と表す。

それは「こんな恋煩いをしてしまう自分だけど、どうか見放さないで欲しい」という切な願いにも聞こえます。「こんな自分でも...」という所にもまた主人公の自己評価の低さが伺えるでしょう。

 

このメロディーラインなのですが、Bメロで穏やかなメロディに転調してサビに入る際にまた元の調に戻るところがミソで。一時的な転調はポップスでもよく使われるイメージですが、意外性のある転調をすることで雰囲気が変わった感じを演出し、物語が進行したことを強調するために使われたりします。起承転結の転にあたるイメージでしょうか。

千雪の歌唱パートであり、この転調は甘奈・甜花の姉妹に千雪という変化を告げる存在が加わり、アルストロメリアという新しい関係が始まったことを想起させます。

 


1番 - サビ1

チュ チュ チュ 幸福論 誕生

アイデンティティー見つけた

アルストロメリアの花

咲いた 咲いた Silent Love

先述の通り、「幸福論」というワードはアルストロメリア(赤)花言葉「幸い」に由来しており、「アルストロメリアの開花」を「幸福論の誕生」という暗喩によって叙述します。

また、ここまでにも見られるよう歌詞における「わたし」はアルストロメリアに見立てられており、転じて、「わたしの恋(silent love)」は「アルストロメリアの花弁」に表現されます。

つまり、この歌詞は「わたしの恋(Silent Love)が花開いた」=「アルストロメリアの花が咲いた」=「わたし流幸福論の誕生」という構造を取るわけです。

そして、恋を自覚した「わたし」は「キミ」への恋心こそが現在の自らを形作るアイデンティティーであると考え始めていくのでした。

 


1番 - サビ2

過去も未来も諸事情も

キミ色にぜんぶ染まりたい

一途なわたし フィロソフィ

咲いた 咲いた Silent Love

過去も未来も、諸事情の自らのすべてが「キミ」で満たされたいと想うほどに「キミ」に一途であろうとする「わたし」。ここにおける「フィロソフィ」とは、何を意味するのか。

これは恋の渦中において、まさに「わたし流幸福論」について哲学することなのでしょう。

想いを胸に秘めたまま、自己肯定感の低さ故にそれを表に出すことが出来ず、恋に対して臆病で奥手になってしまう「わたし」。

そうして恋心を秘めたままの「わたし」が、自分の心を満たす方法を見つけ出すための自分なりの幸福論を哲学し始めます。

 


2番 - Aメロ1

ニヒリズムも ペシミズムも

退屈がテンプレ

まっ赤なりんごは落ちてこない 木の上のまま

  • ニヒリズム虚無主義。あらゆる存在に客観的な価値を認めず、あらゆる権威を否定する立場。
  • ペシミズム…厭世主義。この世界は悪と悲惨に満ちたものだとする人生観。

例えばの話、「まっ赤なりんご」を知恵の樹の実に例えるとするならば。

その場合、知恵の樹の実は木の上に実ったまま人間の手に渡ることなく楽園からも追放されないこと、転じて、変化の訪れない永遠が続くことを示唆します。

そうして、わたしとキミの関係性は平行線のまま交わることない現状をここにおいて嘆いているのです。

または、「まっ赤なりんご」は憧れ・欲しいもののメタファーであり、憧れ(=意中のキミ)に手が届かない様子とも取れるでしょう。ニュートン万有引力の法則から、「わたし」と「キミ」の間に働かない引力の表れという見方もあるでしょう。

 

ニヒリズムもペシミズムも退屈がテンプレ」、そのままで受け取るならばニヒリズムとペシミズムに対する否定のため息。

甜花の歌唱パートであり、ニヒリズム・ペシミズムとどちらのワードも自己評価が低く(かつて)厭世家な甜花の人生観から引用していると捉えられます。

自己を肯定できず、想いを胸にしまい込んでしまう弱さを止めにしたい「わたし」は、「恋煩いの自己否定に走れども楽しいことはなく、いつまで経ってもこの思いは進展もしない」と自分を戒めるかのように言い聞かせるのです。

しかし、皮肉にも「ニヒリズムもペシミズムも退屈」という彼女の考え方自体がどことなくニヒルなもの。

 


2番 - Aメロ2

もしも いつか やがて きっと

初めからエンドロール

照れかくしなんてあまのじゃくすぎるかな

「もしも」→「いつか」→「やがて」→「きっと」→「初めから」は、これら全て「エンドロール」を修飾しており、「もしも」から「初めから」へ行くに連れて疑惑が確信へと徐々に変化している様子。

「意中のキミが、もしも他の誰かと結ばれてしまったら...」という不安は積もり積もって大きくなってゆき、やがて「本当はキミにももう恋人がいて、わたしの恋は始まる前に終わっていたのかもしれない」と、ますます悲観的に考えてしまうようになります。前項のペシミズム・ニヒリズム的な思考が更に進行している様が見えてきます。

 

 天邪鬼(あまのじゃく)はひねくれ者を指す言葉ですが、やはりここもアルストロメリアの葉が "ねじれた" 様子を比喩的に人間の "ひねくれた" 性格に落とし込んでいるものなのでしょう。

「わたし」の本当の表側の想いは心のねじれによって裏側へと隠されてしまい、表面的に見える心は嘘・欺瞞のものであるという姿を、根本でねじれて上下が逆になったアルストロメリアの葉と重ねて描きます。

素直になれない「わたし」は本当は想いを伝えたいのに自己否定するが故に素直になれず、結局照れかくしに逃げてしまうことを自虐してしまうのです。

 


2番 - Bメロ

ねじれた茎が不完全でも

かまわずずっとそばにいてくれますか

同様に「ねじれた茎」はアルストロメリアの葉が根本(茎)でねじれた構造のことを指し、メタファーとして「わたし」の不完全な心を表しています。

 

これがまたアイドルの世界に入り成長する甜花の姿を見て「いつか自分から離れていってしまうのではないか」という不安を抱えていた甘奈にこれを歌わせるのが憎いのですが、メロディに1番からドラムが追加されており、1番と比較することでアルストロメリアとしての三人に変化が訪れたことも伺えるでしょう。

 


2番 - サビ

ギュ ギュ ギュ 悲劇的 最高

 ジャッジメントがくだらない

アルストロメリアの葉は

まわる まわる Cipher

  • Cipher(n.)...ゼロ。暗号。取るに足らない人(物)。

 この歌詞をどう解釈するかがこの楽曲に関して最も難解。

「悲劇的 最高」、これは何も上手くいかない自分の悲劇的な恋模様を皮肉っているのではないでしょうか。

ここまでの通り「わたし」にはペシミストな面があり、それが退屈なものだと分かっていてそんな自分を変えようとはしたものの、結局、何も思うようにはなっていないことを自虐してペシミズムに回帰してしまう「わたし」。

 

また、ジャッジメントとはゾロアスター教およびアブラハムの宗教における最後の審判

ジャッジメントがくだらない(下らない)」ということは、つまり世界終焉後に天からの審判が下されることなく人間は天国に行くことも地獄に行くこともままならない状況にあることを意味します。

転じて、「わたし」 は『キミと結ばれる未来』も『キミを諦める未来』もどちらを選ぶこともできずに、どこへ行くこともできないただ無為な時間を過ごしていることが読み取れます。

 

そして最後のCipherなのですが、これはCipherの上記3つの意味を全て持たせたトリプルミーニングではないかと思われます。

まず一つに、Cipher=ゼロとする場合ですが、アルストロメリアの葉は根本で180°ねじれており、歌詞について「まわる(180°)→まわる(360°)→Cipher(=0°)」という考え方ができるので、これは「回りまわってゼロに戻ること」を表すと捉えられます。

結局「わたし」がペシミズムに回帰してしまうこと、もしくは「キミ」に届くことなく空回りしてしまう「わたし」の恋心のことと読み取れるでしょう。

二つに、Cipher=暗号とすると、これはSilent Loveのことを暗号と表現しています。

アルストロメリアの葉=ねじれた心 であり、Cipherは「誰も知らない心に秘めた想いと天邪鬼な言動」を「暗号化した恋心」と表現しているわけです。

三つに、Cipher=取るに足らない人とすると、「わたし」の秘めた想いを知る由もない「キミ」にとって「わたし」は取るに足らない存在であるという残酷な現実を突きつける意味になります。

「咲いた」と「Silent Love」と「Cipher」で韻を踏んで心地良い語感をしながら意味として三重の苦痛を描き出すこの歌詞の罪の深さ。

 

「ギュ ギュ ギュ」は苦しくてスカートの裾を掴む音、もしくは胸が締め付けられる音と個人的には解釈していますが……リリイベ等行っていた人でここの振付など覚えている方がいれば是非教えてください。

 


Cメロ

サチュレーションあげてよ

バイオリズム 果てまで

もっとドキドキしよう

  •  サチュレーション...saturation(n.): 飽和。または心臓病用語で経皮的動脈血酸素飽和度(SpO2)のこと。
  • バイオリズム...biorhythm。元は生命体の心理状態、感情、知性などは周期的パターンに沿って変化するという仮説のことだが、科学的には実証されておらず疑似科学とされている。最近では単に一定の周期で繰り返される生命活動の変動のこととされる。

 サチュレーションを上げたい、ということは酸素飽和度の低下を補う酸素を求める声であり、つまりは「息もし辛い」という意味を発します。

「キミのことを考えると、気がつけば息もできない」という「わたし」の混迷の情動。

 

また、ここにおけるバイオリズムとは、おそらく前者の疑似科学とされる概念の方であり、「バイオリズムの果てまで」とは生命が生まれた時から身体に刻まれている命のリズムの果て、つまり「命の果て=死ぬまで」という意味を持ちます。

「キミを死ぬまで、一生想い続けよう」という「わたし」の決意、意思表明です。

 


落ちサビ・ラスサビ

チュ チュ チュ 幸福論 誕生

アイデンティティー見つけた

アルストロメリアの花

咲いた 咲いた Silent Love

ギュ ギュ ギュ 悲劇的 最高

ジャッジメントがくだらない

アルストロメリアの葉は

まわる まわる Cipher

 

Yes No 好きでも嫌いでも

キミにならぜんぶ捧げたい

重なるしぐさ シンパシー 

咲いた 咲いた Silent Love

愛が咲いた Silent Love

そうして、「わたし」の物語が終結します。 

落ちサビからラスサビにかけて、これが1番から2番での「わたし」の苦悩の過程に対する回答です。

 

「幸福論の誕生、アイデンティティーの発見」、1番と同じ歌詞ではありますが落ちサビでその意味するところが変化を迎えます。

言い出せない恋に悩み抜いた末に「わたし」は恋を自覚した時から考えていた自分なりの幸せの在り方、「わたし流幸福論」を遂に見出すのです。

 この幸福論に基づく幸福主義こそが「わたし」を苦しめたニヒリズム・ペシミズムへのカウンターであり、「わたし」の人生観の一つの到達点。

「わたし」が幸福論の完成によって迷いを振り切ったことでラスサビへと展開します。

 

2番では自らの悲劇を自虐する言葉だった「悲劇的 最高」「ジャッジメントがくだらない」は、ラスサビで「これは悲劇?いいや、最高」「ジャッジメントなんてくだらない(関係ない)」へと変遷します。

「~がくだらない」をあえて「下らない」と表記していないのはこのダブルミーニングのためなのでしょう。

幸福主義に立ち、ペシミズムから抜け出した「わたし」は今を悲劇でも虚無でもない幸福として受け止めることができるようになるのです。

 

そんな「わたし」が掴んだその幸福論は果たして何だったのか。

それは「devotion: 献身的な愛情」でした。

 「キミ色にぜんぶ染まりたい」という "恋" を「好きでも嫌いでもキミにならぜんぶ捧げたい」とキミに献身する "愛" へと昇華させることが「わたし」の恋の到達点だったのです。

自己否定を繰り返すねじれた心に邪魔されない、相手が自分をどう思おうと揺るがない絶対の愛の形、それが献身の愛。

その愛を持って「わたし」は自己否定を克服し、「キミ」を想い続ける決意をします。

だから歌詞の最後は「恋が咲いた」のではなく「愛が咲いた」なのです。

そうして「わたし」本位な恋が「キミ」本位の愛に変わったことでようやく「キミ」へ一歩近づけたことが、初めて「キミ」の仕草に重なってシンパシーを感じたことに表され、高揚感と喜びの弾むメロディとともに物語は終止線へ向かいます。

 恋に恋する女の子がアルストロメリア花言葉「献身的な愛情」へと辿り着く物語、これが「アルストロメリア」なのでしょう。

 

「わたし」と「キミ」が結ばれるのか、「わたし」は「キミ」に想いを伝えられるのか、結局それは歌詞には語られません。

「キミ」が好きでも嫌いでも「キミ」にすべて捧げられる「わたし」にとって、それは既に絶対的な必要条件ではなくなってしまったのですから。

「キミが好き」と思えるだけで幸せであれるという人生観へと、自己否定の苦悩からの脱却によって「わたし」は辿り着くことができたのです。

アルストロメリア」とは、恋から愛への昇華を掲げ、愛による幸福について哲学をする物語。

 かなり独善的な解釈だとは自覚していますが、これがアルストロメリア花言葉から着想を得た、本エントリーにおいて解釈する「アルストロメリア」の歌詞の意味とテーマです。

 

終わりに

この歌のヒロインである「わたし」には自己評価の低さが見受けられる所が幾度となく出てきましたが、それは歌唱するアルストロメリアの3人にもメタ的に当てはまる面があります。

甜花は言わずもがなですが、実は甘奈も自己評価が低い面があり、甘奈がアイドルになった目的は双子の姉である甜花の可愛さを世に知らしめるためでこそあれ、当初は自分もアイドルになるつもりは無かったと後々に本人の口から語られたり。

自分がアイドルとしてやっていける自信も本当は無く、アイドルとして活動していく中で「本当に自分はアイドルをできているのか」とプロデューサーに尋ねてくるシーンが度々出てきたり、甜花が自分の下から離れていって自分だけ置いていかれてしまうのではないかと不安になる様子を見せます。(詳しくはWING編参照)

千雪についても、他者を優先して自分を後回しにしてしまいがちな面があったり、新しく開けたアイドルという道とどう向き合っていくか悩んだりと、根の深い自己否定ではありませんがそれに通じるものが心の底にあるでしょう。

 

歌詞やメロディの中にこういった3人のことを想起させるようなワードやギミックが仕組まれてあったり、歌詞の難解さも相まって本当に大変なことになっている「アルストロメリア」なのですが、メロディ自体はポップでキャッチーで王道的な楽曲となっています。ラスサビの盛り上がり方なんかも王道的なポップスって感じでメロディだけ聴いていたら盛り上がる可愛い楽曲なのに、ふと歌詞に耳を傾ければ途端に重く切ない世界観が顔を覗かせる。この重力感がとにかくハンパない。

傑作というか怪作というか、名作なのは間違いないんですけど。

元々直感的な好みだけで「アルストロメリア箱推しになるかな〜!」とヘラッとしていた自分は完この楽曲を聴いてからというもの、完全な不意に鋭利な刃物で背後から刺されてしまったわけですね。今ではすっかりヘビロテソングに仲間入りした楽曲。

収録CDのカップリング曲「ハピリリ」もまた恋する女の子の気持ちをめちゃくちゃ繊細に可愛く描いた曲なので是非聴いて欲しい。

ゲーム・楽曲と触れて、王道的な可愛さを持ちながらも表面的な部分だけではない、多面体的な心の繊細な機微を描いていくところにアルストロメリアの魅力があると自分は感じています。

 

ということで以上長文にお付き合いいただきありがとうございました。

シャニマスはキャラも楽曲もとても好きなので今後もコンテンツとしてさらに盛り上がっていくことを楽しみにしています。

 

 

 

 

つまるところ、シャニマス1stでアルストロメリアを聴いて盛大に頭を抱えてぇ...。